2015年2月27日

BookJapan書評「A Life of William Inge」

ある劇作家の栄光と挫折
『A Life of William Inge: The Strains of Triumph』
ラルフ・F・ヴォス著
The University Press of Kansas
http://www.amazon.co.jp/Life-William-Inge-Strains-Triumph/dp/0700604421/ref=sr_1_3?s=english-books&ie=UTF8&qid=1348243885&sr=1-3

 なぜか私は、隠れゲイの作家が好きなのである。具体的に言うと、英文学のE・M・フォースター、ミステリーのコーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)、劇作家のウィリアム・インジだ。彼らはみな、ゲイであることを公にせずに作家活動をしていた。今とは違い、ゲイに対する偏見が強く、カミングアウトすることは非常に困難な時代だったのだ(インジは晩年にはカミングアウトしている)。
 そんなわけで、隠れゲイの作家たちはゲイの物語を書かないのである(フォースターの同性愛小説はすべて死後に出版されている)。彼らはなぜか、物語の中心に女性を据える。1950年代くらいまでの20世紀前半の物語なので、女性は今よりずっと弱い立場にいる。女性に対する社会の抑圧も強い。多くの女性は結婚という未来に縛られていて、ほかに選択の余地があまりない。そうした女性たちを、隠れゲイの作家たちは実に魅力的に描く。フォースターは上流中産階級のヒロインたちの目覚めを描き、ウールリッチは事件に巻き込まれながらも必死で生きる健気な女性たちを生み出し、そしてインジは親の期待や保守的な道徳観に縛られながらも、そこから自立して生きようとする女性たちを描いた。彼女たちは抑圧されたマイノリティであるゲイの作家たちの分身なのだろうか。ゲイを扱った物語に女性が惹かれるのは、こうした隠れゲイの作家の描く魅力的なヒロインたちと関係があるのだろうか。そんなことをずいぶん長い間、心の片隅で考えてきた。
 ウィリアム・インジ(1913-73)の伝記である本書は、残念ながら、この疑問に答えてはくれない。インジが生涯悩まされていたのはアルコール依存症とホモセクシュアリティであったと著者は述べているが、その筆致は控えめで、インジの私生活に強引に立ち入ったり、ゲイであることと作品の内容をことさらに結びつけて強調したりすることはない。インジは私生活を公にすることを嫌っていたため、彼の知人友人もそのことについてはあまり語ろうとしない、と著者は言う。そして、著者自身もインジの気持ちを尊重し、インジの残した作品に寄り添う形で伝記を執筆すると宣言している。インジには自伝的小説『むすこはすてきなドライバー』があり、これが若き日のインジを知る手がかりとなるようだ。
 インジをご存知ない方のためにここで簡単に紹介すると、インジはアメリカ中西部カンザス州に生まれ、新聞に劇評を書いていたときにテネシー・ウィリアムズと出会ったことから劇作家を志す。地方の演劇を経て1950年代にブロードウェイに進出すると、デビュー作から4作品連続ヒットという快挙を成し遂げた。この4作品はすぐに映画化され、そのうちウィリアム・ホールデン主演の『ピクニック』とマリリン・モンロー主演の『バス停留所』は今でもDVDでよく見られている。そして1961年の映画『草原の輝き』のオリジナル脚本でアカデミー賞を受賞。しかし、このあと、ヒット作が書けなくなり、映画化もされた『さようなら、ミス・ワイコフ』で小説家への転進をはかるがこれもうまくいかず、失意のうちに自ら命を絶った。小説『さようなら、ミス・ワイコフ』と『むすこはすてきなドライバー』は70年代に新潮社から翻訳出版されたといえば、日本でもかつてはインジが著名な劇作家だったことがわかるだろう。
 伝記の冒頭で、著者は少年時代に見た2本の映画『ピクニック』と『草原の輝き』の思い出を語る。インジと同じカンザス州に生まれ育った著者にとって、『ピクニック』に登場するカンザスの風景はなじみのものばかりだった。ご当地映画ということで、カンザスの映画館は大盛況。幼かった著者は原作者の名前を記憶しなかったが、数年後、『草原の輝き』を見て、インジの名前を知る。この映画もカンザスが舞台である。『オズの魔法使い』の平原と竜巻しか知られていなかったカンザスが、映画の中で普通の人々の住む世界として登場する。カンザス人である著者にとって、インジは何よりもまず、カンザスを描くカンザスの作家だった。
 序文で原体験を語ったあと、著者はインジの生涯を両親の代からたどっていく。セールスマンだったために不在がちだった父への反発、結婚を後悔しつつも子供を何人も産んだ母への愛、少年時代からすでに自分がゲイであることを意識していたが、保守的な田舎町に住む母が息子がゲイだと知ったらショックを受けるだろうという思いから、そのことを隠し続けたこと。不眠症が原因でアルコール依存症となり、断酒の会にも参加していたこと。そして1950年代の成功と60年代からの転落。だが、はたから見れば、インジの人生はそれほど悲惨なものではない。父への反発があったものの、家庭的には不幸ではなく、大不況のさなかに大学院にまで進学させてもらえている。その後のキャリアも順調で、ヒット作が書けなくなったあともお金には不自由していない。そんな彼を自殺に追い込んだのは、頂点をきわめたあとの失意と絶望だった。アルコール依存症とゲイであることの重荷、そしてよい作品が書けないことから来る生きる意味の喪失。副題の「Strains of Triumph」はエミリー・ディキンソンの詩の一節「(遠くの)勝利の調べ」から来ているが、この英語は「勝利の重荷」とも読める。
 カンザスや中西部の田舎町を舞台に普通の人々のドラマを描くインジの劇は、50年代には大ヒットするが、60年代にはもはや人気を得られなくなる。インジ自身、時代の変化を感じて違う作風をめざすが、まったく成功しない。「時代が変わり、人の好みも変わる」と著者は何度も書いているが、まさにそうとしか言いようがないのだ。その一方で、インジの映画化作品はテレビやビデオ類でよく見られていること、インジの劇はアマチュアの劇団によってよく上演されていることも指摘する。そして、カンザスという一地方を舞台にした彼の物語が、そうした地方性を超えた普遍性を獲得していることも指摘する。これこそ、私がインジの劇や映画について感じてきたことなのだ。インジの描く世界は確かに古い。女性は玉の輿が一番とか、女性は婚前交渉はご法度とか、古い道徳観に縛られた世界なのだが、その一方で、親の価値観に縛られ、親の期待におしつぶされそうになっている若い男女が自立していく姿には時代を超えた普遍性がある。都会ではなく田舎だからこその普遍性もあり、それも、個性の強い南部ではなく中西部のカンザス州だからこその普遍性がある。
 本書で面白かったのは『ピクニック』をはじめとする代表作の裏話である。特に『ピクニック』はインジの書いた結末が演出家や出演者の気に入らず、心ならずもハッピーエンドに変えてしまったという話は興味深い。『ピクニック』は演出家のジョシュア・ローガンがそのまま映画化の監督になったが、この映画のラストシーンは名シーンとして名高い。だが、インジの考えた最初の結末ではこのシーンはあり得なかったのだ。いや、むしろ、オリジナルのままでは劇はヒットしなかった可能性が高い。これでインジはローガンとうまくいかなくなったが、のちに『草原の輝き』でも監督のエリア・カザンがインジに断りなく脚本の一部を変えたために仲が悪くなったという。インジには申し訳ないが、ローガンやカザンのおかげで名作になった可能性は捨てきれない。また、劇は小説とは違い、演出家や出演者たちと何ヶ月もかけて作り上げていくのだということや、地方で上演して反応を見ながら劇を仕上げ、最終的にブロードウェイへ持っていく過程などが具体的にわかるのも面白かった。アカデミー賞授賞式でのインジのエピソードも楽しい。著者は英文学の教授だが、決してアカデミズムのかたい研究書としての伝記ではなく、かといって扇情的な評伝でもない、バランスのとれた読みやすい伝記となっている。何よりも、インジの世界を愛する著者がインジの物語を愛する読者に向けて書いていると感じられるのがファンとしてうれしいのだ。
(新藤純子)